「ノマドワーカー(Nomad worker)」から「ノマドリバー(Nomad liver)」へ

僕がノマドワーカーという単語を知り、その概念に感動したのは、単にいろんなところをまわりながら仕事をしてみたい、という願望と興味心からだった。そうした働き方のほうが、エキサイティングで面白いと思ったからだ。

しかし今回の東日本大震災&大津波を見て、これは生き方や生活そのものも、早急にノマド化したほうがいいと思うようになった。ノマドワーカー(Nomad worker)」から「ノマドリバー(Nomad liver)」へ。そんな感じに変化していきたい。

もちろん文字のごとくの「遊牧民」になるのではなく、「生き方の姿勢」や「考え方」みたいなものを、変えていくこと。多くの物を所有し、城のような家に住む。そんな20世紀型の「憧れ」に終止符をうち、いかに物を所有せず、フットワーク軽く動きながら生きていけるかを、追求していきたい。


津波が教えてくれた限界

↓これ、今回の津波で、一番怖いと思った映像。

5分もたたぬうちに街全体が消滅していく、「DAY AFTER TOMORROW」のような映像を見つつ、「これはもう限界だなぁ、考え方、生き方から変えなきゃなぁ」と思った。

多分、20世紀までは、人間の技術で、ある程度自然に勝てると思っていたに違いない。なぜなら自然に勝つことが前提の豊かさだったから。耐震&免震技術を駆使した家を作り、海には頑丈な防波堤を作る。そんなことをやって、僕らは安心をし、地域に根ざした形で暮らし、物をたくさん所有する道を選んだ。

しかし、結果は映像を見ての通りである。
5分もたたずに全てが海に飲み込まれてしまった。

都知事の天罰発言ではないけれど、正直、今までの考え方で自然と付き合っていくのはもう無理だと思わざるを得なかったね。地球は温暖化が進んでいると言われるが、温暖化で問題なのは、ただ気温が上がるだけではなく、今まで経験をしたことがない、「想定外」の災害が多発することらしい。もはやそうなってしまっては、「ここまでやれば大丈夫」というボーダーは意味を持たなくなり、人智で災害を防いでいくのは、あきらめたほうがいいかもしれない。

今回みたいに、7メートルの防波堤に14メートルの津波が来たとか、津波の映像を見て一番驚いたのは津波の研究者とか、そんなジョークのような話が珍しくなくなるに違いない。

もう、自然や地球のことを、わかったような気になるのはやめよう。僕らが自然をコントロールするのではなく、自然の都合に僕らが合わせて生きるしかない。まあ当然といえば当然なんだけど。


■僕の好きな遊牧民の発想

オーストラリア大好きな自分が、一番始めに思い浮かべる「遊牧民」が、オーストラリアの先住民「アボリジニ」だ。彼らは定住の場所を持たず、移動しながら生活している。彼らは生きている間のすべてのものは、「神からの借り物」とし、自分たちに与えてくれる大地を「母」と呼ぶ。

また、これはテレビで見たんだけど、東南アジア(場所はどこか忘れた)の民族が、地震で家が壊れたので、新たな家を作っていた。土を固めてできた簡単な家だったので、レポーターが「この家はどのくらい持つんですか?」みたいな質問をしたら、「次の地震が来るまで」と真顔で答えていた。

彼らに共通して言えるのが、「所有」という概念が僕らと全く違うことだ。今持っていても、「いずれなくなる」と知っているので、そこまでこだわりがない。まさに自然とともに生きる上での知恵だろう。

僕らは「自然災害に遭わないように生きてきた」。彼らは逆に「自然のどんな面とも付き合う覚悟と意識で生きてきた」。もちろん僕らが完全に間違ってたわけではない。でも正直限界だから、彼らの考え方をこれから多いに学び、取り入れるべきだと思う。


■所有しない

そう考えると、今まで所有を増やすために必死になってた自分がカッコ悪く感じてくるし、物を溜め込んで暮らすことがどれだけ危険かがわかる。「失いたくない気持ち」が、動くこと、変化することの足を引っ張ることは間違いない。そして失いそうになった時の危機感と、失った時のダメージは甚大。

それを防ぐ、もしくは緩和するためには、考え方を20世紀型から21世紀型(と勝手に決めてる)に変えてしまおう。

「たくさん所有して贅沢に暮らす」
が20世紀はカッコよかったけど、

「最低限のものだけを持ち、自由に動きながら暮らす」
みたいな「変化対応型」が21世紀はカッコイイ(と思ってる)。

言葉を変えれば「自由」ということね。


■軽くいこうぜ!

危ないと思ったらすぐに動ける。そして、自分がこうしたい、こうなりたい、ここに行きたいと思ったら、すぐに行動が起こせる。そんな「身軽さ」がこれからは何よりも大切になってくるような気がしている。

物質的な面と精神的な面の両方を軽くする。高い車や家具やでかい持ち家、そして見栄やプライドみたいな「動きにくくなる重り」をなくす。そして国や地域に縛られず、どこにでも移動できるくらいの「機動力」もほしいところ。20世紀を少しでも生きてしまった僕らにはちょっと難しいかもしれないけど、常に意識して、無駄を捨てていくようにしたい。

それは贅沢しないとか、質素に生きるとか、エコやロハスみたいな、今までの「記号化」されたものとは全くちがう、「自分なりの」動きやすさを追求することね。「贅沢追求社会の成れの果て」を知ってしまった僕らは、次はそっちにシフトしていくと思うし、今回の地震津波が、「早くそっちに行け」と教えてくれたような気が、少なくとも僕はした。

唯一死ぬまで僕らが所有できるのは、この身体、この命。それ以外は死ぬまで所有できる保障はどこにもない。逆にその所有物を守るために、重りになるものは所有しないほうがいい。まあアボリジニは身体と命すらもレンタルしていると考えられるからスゴいんだけど。

では具体的にどうしようと思っているかも書こうと思ったけど、疲れたので後日にします。

行くぜノマドライフ!(続く)


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