つかむな、放せよ
座右の銘とか特にない自分だが、10年くらい前に読んだ元弁護士の中坊公平さんのコラムの言葉が今も変わらず心に響いている。
それは「つかむな、放せよ」だ。
これは中坊氏が若い頃出会った禎(てい)さんという方からもらった言葉らしい。
下記がその文章。
禎さんは、幼い時に親と離れて暮らすなど、複雑な生い立ちをした。名門中学を落第続きで放校。大学に入っても、私より9つ上のため学徒動員で南方へ送られた。そして、飛行機の墜落、爆撃されて建物の下敷き、駆逐艦の沈没と、体をメチャメチャにされて復員した。
その後、父親と同じ仕事を嫌って会社を興したが、倒産。やむなく父のところで事務員をしつつ、司法試験の勉強を始めていた。
度々どん底をなめてきた彼の遊び方には、限度というものがなかった。夜な夜な大阪の歓楽街を中心から場末まで、明け方まで飲み明かした。当時は恵まれない境遇の人が多かった酒場の女性たちにも好かれ、頼られた。それもあって、学生時代を含め3度結婚するなど、いささかお忙しかったが。
そういう生き方に周囲の視線が厳しかろうが、恬(てん)として動じなかった。そして時々、妙なことを言うのだ。いわく「公平さん、つかむな、放せよ」。モノに執着すると多くの場合しくじり、そこから自由でいると、不思議に結果としてついてくる。
<中略>
これらの言葉の価値を、当時の私がすぐに理解できたわけでも、自分を変えられたわけでもない。しかし、修羅場をくぐってきた彼の言には何ともいえない強さがあり、後々、私がそれを我が身に生かせるようになるまで、胸に生きていた。
「つかむな、放せよ」
すごく簡潔でシンプルな言葉だけど、かなり真理をついた表現だなと、読んだ時感動した。巷にあふれているモチベーション上げる系の文章や名言とかも、この一言に要約されているような気がする。そしてこれはノマドワーカーとして、自由人として、そしてライフハッカーとして(たくさんあってすみません)、最強の言葉なのではないかと、今日電車に乗りながら思った。
だって、夢や理想を追うとか、効率化するとか、何か行動を起こし変化する時には、必ず何か捨てるものがあるからね。
今の生活の楽な部分を捨てる。自由時間を捨てる。安定を捨てる。エゴを捨てる。地位を捨てる。収入を捨てる。周りの評価を捨てる。合わなくなった友人や恋人を捨てる、などなど。
要するに大切なのは、「何を得るか」ではなくて、「何を捨てるか」なんだよね。何につけ愚痴やできない理由を上げ連ねて何もやらない人って、そこんところをわかっていない人だと僕は思っているし、今うまくいかなくなっているシステムや組織って、だいたいダメになったものをつかみ続けて放さないところから来ていると思う。人の脳は変化を嫌う習性があるから、きちんと意識して、「捨てる」行為をしないと、人はなかなか行動できない。
でも、「捨てる」とか「犠牲にする」って、言葉にすればその通りなんだけど、ツライじゃない。嫌だよね。それにそれらの言葉って、一度断行すると、そこで「終わり」のような気がして寂しい。
だから僕は、「つかむな、放せよ」という表現が好きだ。
捨てるのではなく、放すの。
自分が行動した結果、離れてしまうなら「仕方がない」というスタンス。
海外を目指すなら、当然慣れ親しんだ日本から離れないといけないし、自分の志す道や考えが、仲良かった人と違うなら、その人とは違う方向に曲がって歩いていかなければならない。それは日本や友人を捨てるわけではなく、放す(リリース)するの。自分の意としないことも受け入れる、水の流れに身を任せる感じね。
「お前とはもうお別れだ!」ではなくて、「僕はこっちに行くんで、ついてきたければどうぞ。来たくなければ来なくていい。その代わりまたいつかどこかで会うかもね」みたいなニュアンス、わかるかな? そっちのほうが自由だし、運命というままならぬ旅路に楽しさを見いだせるんじゃないかと思ってる。
自由に生きていきたいなら、「つかむな、放せよ」。
行動を起こすなら、「つかむな、放せよ」。
常にフレッシュな状態でいたいなら「つかむな、放せよ」。
「つかむな、放せよ」
こりゃ座右の銘ができた感じだな…。